ゲイの視線、バイの視点。

愛と思いやりをもって、最後まで生き抜くのみ。

#0149 本当の自分?

世間はGWだそうである。僕は残念ながらお仕事にてあまり関係ない。どのみち、どこに泊まろうと特急に乗ろうとエクストラな料金を取られるし、どこへ行っても人だらけ、高速道路は渋滞するしで踏んだり蹴ったりなもんだから、この時期に遠出をする習慣をとっくにやめているので、いつも通りである。

いつも通りであるのは、良いことだ。お陰様で、今この瞬間、淡々と日常を生きている中で、解決不能な問題や悩みで苦しむことがなくなった。些末なことにぶつくさ文句を言いながら、それでもご飯を食べて寝て、平和に生きているわけだ。

もちろん、長期的に見れば問題や課題はたくさんある。

何より目下の僕の問題は、これからの目的地設定を一向にできていないことだ。

そんなもんしなくていいのだ、という向きもあるし、現状ではそうやってしのいでいる。とりあえず、仕事が一応あって、飢え死にする心配もなく、雨風がしのげる住まいがあるんだしいいじゃんか、と。

いやいや、もちろん、そうなんだけれどもだ。

自分の中に長い間こびりいた、てらいやつまらないプライド、執着、他者評価に振り回される態度…それらをこれでもかと剥がされる人生が続くと、本当に何も残らない。とうとう今まで自分を苦しめてきた承認欲求と称されるものまで、ほとんどなくなってしまった。

それでも生きようと僕を突き上げるもの、もはやそれに乗っかるしかないのだ。

しかし。それに乗っかるのは良いことなのか?いいのかそれで?

僕は理屈でそれを押し留めてきた。

本当の自分、つまり、他者からの評価にとらわれず、自分の中から湧き出てくる欲望、欲求、やりたいこと、それをやるのが一番だとはわかっているけれどもだ。

その呼び声は、深く暗い闇から、ある種穢らわしいものであるかのような猥雑さ、下品さでうめくのだ。

しかし、僕はそれをもう認めるしかないところまできた。

もちろん、それが倫理的に正しいのか、人に迷惑をかけないのかっていうチェックはパスしないといけないわけだけれど、なんなく、パスしているのだ。何をためらう理由があろうか。

人間、外の世界や状況を思うようにはコントロールできないだけではなく、自分の思いや感情とて、コントロールしようとしたってうまくいかないもんだよ。大学の恩師にそう諭されたのを思い出す。

自分の内側にいる、内在化された他者や世間を一つ残らず切り捨て、自分がどうしてもそれを欲して希求することを認めて、それに手を伸ばすこと。

本当の自分になるプロセスはそれしかないし、やっとそこにたどり着いたのだと、深夜の静寂の中でしみじみと思い至る。

僕を駆り立てるその声が何を指しているのかを、他者に披瀝することは、ないだろう。

それでも、心の奥底から突き上げる鮮烈で、猥雑なその強い衝動を、それが本当の自分なのだと認めることができ、それを慈しむことがやっとできたという充実感に、深夜の曇天の空を見上げ、爽快な気分でいるのだ。

愛とは一体何なのか、それは、何をしてもしなくても許されているという自由であり、本当の自分でいることを何よりまず自分に許すことにほかならないというその意味を、ああ、これのことなのかと理解し始めたところである。

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#0148 いま、にいること。

人間は目に映る世界を、既にある過去の記憶から解釈して、意味をつける。

過去が前向きな記憶なら、今も前向きになる。

過去が辛くて苦しく、悲しい記憶ばかりなら、

今目に映る彩りのすべてが、僕を怯えさせる。

 

必死に僕は傷つけられないように身を守り、疑い、それでも愛を求めて、

また見失い、絶望し、また立ち上がる。

そんな繰り返しにうんざりし、また前を向く、そんな繰り返しをしてきた。

 

そして僕は、目に映る世界が決して自分を傷つけるものばかりではない、

と気づいて、少しずつ、心のピースを不安から愛と喜びに置き換えてきた。

簡単なところから、少しずつ。

 

そして気がつくと、大半のピースが、平和で穏やかになった。

僕の目に映る世界は、優しさと愛が染み渡っている安心感が広がった。

 

でも、どうしても、取り替えられない真っ黒なピースが残る。

こびりついた台所の油汚れのように、取れることなく、僕の心にくっついたままである。

またやってきた嵐に一瞬取り乱し、また自分を見失いそうになってよろめきながらも、

僕は初めて選択を変えた。

抵抗をやめ、自分ではなかなか変えられない、ついつい決めつけがちな自分の固定観念を吹き飛ばしてくれるのは、この外からくる嵐なのではないか?そう思い、足元を確かめ、そのエネルギーに身を委ねてみることにした。

僕は自分に問いかける。

今僕の目に映るあれこれは、本当に自分を傷つけ、喜びを奪おうとしているものなのか?と。

人を信じられない僕が意を決して身を委ねた瞬間に手のひらを返され、身体から力が抜け、しばらく記憶が飛んでしまったあの怒りと絶望が、忘れるな、世界はそんな場所だと警戒しなくちゃいけないと誓ったじゃないか…

そう、過去の僕が僕に向かって叫ぶけれど、いま、本当は何が起きているのか?

すべてを冷静に振り返って、出来事の意味を見切って、愛と喜びを選ぶのだと決めて進んできた僕自身の積み重ねを見る。

外側の世界の結果がどうなったとしても、愛と、そしてまたより良く、やさしく、喜びを求めて生きていこうと思う自分を見る。

最後に残る真っ黒なピースを取り去るまで、後もうひと息だ。

もう、大丈夫だ。

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#0147 遅れていても必ず来る春

一人で暮らしていると、美味しいコーヒーを入れるのがもったいない。

実家で暮らしていた頃は、自分が飲みたくなって入れればコーヒーメーカーから漂う香りで、ワシもワタシもと親からオーダーが来るので、3人分メーカーで作れば一回で使い切れた。

メーカーが壊れてしまって、いいや、普通にドリッパーとフィルターに挽いた豆入れてお湯注いだらいいんだし、と既に挽いてある豆のパックを買って何年もしのいできたけど、チビチビちょっとずつ飲むもんだから、淹れたコーヒーがすぐに酸化しておいしくなくなるので、1日に何回も入れなきゃいけない。

とうとうそれにも辟易してしまい、インスタントコーヒーを買うようになった。ついにお湯を入れて溶かすだけの安楽さに味をしめてしまった。

お酒が飲めない僕は、コーヒーとタバコが欠かせない。

タバコは加熱式にチェンジして数年、物足りなさもなくなった。

数字三桁が商品名になっている、値段がお手頃で酸味が効いてまあまあイケるコーヒーを、嗜好っていうだけではなくて、日々のモヤモヤを吹き飛ばしたかったり、緊張をほぐしたい動機で、朝仕事の前に飲み、夜も眠れなくなろうがお構いなしに気にせず何杯も飲んでいる。

茶店でコーヒー飲んで楽しく話しながらタバコを吸う楽しみも許されなくなり、タバコが吸えますと謳う喫茶店ですら、加熱式たばこであっても離席して専用ブースへ行って吸ってくださいと言われる始末で、結局タバコとコーヒーは自宅で楽しむだけになった。

友達と電話をしてたりするとつい増えてしまうのだけど、最近、また飲む量が増えている。

たくさん飲むんですね、と言われて、改めてほんとだ、コーヒー飲んでばっかだなあと頭をかきながら、自分の感情に気づく。

今年の桜の開花は少しだけ遅くなるらしい。

それでも必ず春はやってくるし、いよいよ、本当にやってくるのだな、ありがたいことだなあ、などといつもとは違う気分で、何年も何年もずっと待ち焦がれていた、あの春が来るのを迎えようとしている。

遅れてくれたおかげで、毎年一人で楽しんでいる桜並木のお花見に、ちょうど誘えるタイミングになりそうだ。

というわけで、何やら浮かれているのでありました。つまりそういうことです。

とはいえ、コーヒーの飲みすぎには気をつけないといけない…。

またコーヒーメーカー買おうかな。ちょっといいヤツ。

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